空の影

2004年2月25日 メモ
 戦隊アニメのテーマソングが部屋中に鳴り渡った。聞き慣れた目覚し時計を止めながら、まだ一弥の意識は覚醒しない。
「一弥さん、仕度出来ましたか」
 冷たく聞こえるソプラノをスピーカー越しに聞いた途端、アッパーシーツを跳ね除けて玄関へ走りこむ。
 いつでも入れる許可とカード・キーを与えているのに、彼女は決して一弥に無断で私室へ入ろうとはしない。
 せめて顔を洗って呼吸を整え、玄関ドアのセキュリティを若干硬い声で解除した。スライドしたドアの向こうには、僅かに眉をしかめた流水が立っていた。
 美人は怒っていても様になる。
 思った事を少しも顔に出さないでいるのは、慣れていても努力を要した。
「そんな風に怒ってると、せっかくのドレスが台無しだよ」
「まさかとは思いますけど、今起きたわけじゃないですよね」
「もちろん、今じゃないよ。三分くらい前かな」
 流水はかすかにため息をもらしながら、「屁理屈は結構ですから、早く準備してください」と冷たく言い放った。勝手知ったる様子でキッチンへ向かうと、朝食の用意を始める。
 笑みを殺しきれないまま一弥がバスルームへ向かうと、先ほど顔を洗う為に外した銀色の指輪が目に飛び込んできた。しばらく銀色の輝きを眺め、それから流水の元へ向かった。
「栄養バランスは計算してありますから、全部食べてくださいね」
 テーブルには一弥好みの両面焼きベーコンエッグと、トマトのサラダが並べられている。
「まるで、奥さんみたいな事言うなあ」
 流水の表情はほんの少しも変わらなかった。
「この場合は母親でしょう。こんなに大きな息子を持った覚えはありませんが。それより早く食べてください。10時からですよ、結婚式」
「分かってるよ。……どうせ、『僕』の知ってる人じゃないのに」
「『私達』の、古くからの友人です。一弥さんも何度も話したでしょう」
「どうでもいいよ」
「ひどい人ですね」
 一弥はかろうじて「そうかな」と呟いて笑ってみせた。
 流水が多少手を加えただけの食材はとても美味しく感じられた。ようやく食べ終えると一弥は流水の手を借りスーツを着込む。
「さっさとしてください」
「そんなに急かさないでよ。ネクタイの結び方知らないんだから仕方ないだろう」
 流水は何も言わずに一弥の首元へ手を伸ばし、ネクタイを結ぶ。そのまま締め上げてくれないかと、一弥は祈るほど真摯に願った。
「できましたよ。代表者として恥かしくない出来です」
「ありがとう。そう言う流水さんはここにゴミがついてるよ」
「どこですか」
 ドレスを見下ろしうつむいた顎を上向けて口付けた。すぐに押し返される。
「たまご味」
「……味見しましたから」
「さっき、『さっさとしてください』って言っただろう? あの言い方、初めて寝た時と同じ言い方だった。だから仕返しだよ」
「……そうですか」
 流水は呆れたようだった。

 2人は研究所を出て結婚式場へ向かった。郊外の砂漠で、ドームに守られずそびえる白亜の教会。
 市壁の外にありながら、砂漠の民に荒らされる事もなく、それはあった。
 風と砂とに磨かれ丸くなった階段には、細長い赤絨毯が敷かれている。
 岩石を削りだしたように白茶けた壁と、たっぷりしたレースの飾り。青いガラス板を嵌め込んだような空。飾られた赤い薔薇が、目にも眩しいコントラストを為した。
「時間が過ぎてるんですから、静かに入ってくださいね」
 教会の壇上では、牧師が定められた言葉を繰り返している。
 バージンロードを避けて壁沿いに進んだ2人は、一番後ろの席に並んで座った。
 後姿の、それも頭部だけで見分けがつくほど知っている列席者は一弥にはいない。花婿も例外ではなかった。
 純白のドレスに身を包んだ花嫁の横顔は座席からも見えたが、やはり見覚えは無い。
 見詰め合う2人は一弥と流水のように隣り合い、幸せそうに笑みを交わしている。
 高い天井を伝播した思いが、薔薇窓から降り注ぐ光のように一弥を暖めた。
「一弥さん」
 流水が小声で、心持ち顔を寄せてくる。
「なに?」
 ただそれだけの事で、なんとはなしに幸せを感じてしまう。
「一弥さんの挙式は、再来週ですね」
 流水の目は、壇上の2人を見たままだ。
 その凛とした横顔は、極彩色のステンドグラスを背景に透き徹り、この世で最も美しいのは目の前にいる人だ、と一弥が再認するに充分だった。
「そうだね」
「ちょうど10日後、一弥さんもあそこに立つんです。念のために言って置きますが、自分の結婚式には遅刻しないで下さいね」
「そうだね」
 牧師が、何百年も前から繰り返されてきた誓いの言葉を述べ始めた。
「あの人を、哀しませてはいけませんよ」
「そうだね」
 花婿が、永遠の誓いに「はい」と答える。
「浮気なんて持っての外です」
「そうだね」
 花嫁が、永遠の誓いに「はい」と答える。
「結婚したら、私との事は忘れてください」
「いやだ」
──Now, you may kiss the bride.
 祝福された口付けを見ながら、一弥は自分の全てを能力によって流水に伝えたいという衝動を今度も耐えた。
 それは彼女が望んでいる事ではなかったから、せめて少しでも伝わるように言葉を囁いた。
「僕は君を、絶対に忘れない」
 流水はやはり、ぴくりとも表情を変えなかった。前を見る背筋が一層張るだけだった。
 
 結婚式は予想よりもずっと早くに終った。終ってみればあっけない物だった。
 招待客のいなくなった教会の中、流水と一弥は二人きりで座っていた。
 先に口を開いたのは一弥だった。
「もう、起こしてもらえなくなるんだね」
 流水はようやく口を開いた。
「そんな事、大した問題じゃないでしょう。あなたにとって重要なのは、あなたの部屋に私がいた痕跡が残っていると言う事です。早い内に、部屋を変えましょう」
 いつ婚約者に他の女の存在が知れるか分かったものではない。流水の声は淡々としていた。
 けれど流水はその声で続ける。
「あなたも、忘れるべきです」
「僕にとってはそうじゃない、世の中正しい事だけで生きていけるとも思ってない、だけど、」
 一弥は更に言い募ろうとして口を開いたが、言葉にした途端空気に解けてしまいそうで、止めた。
 それに言葉にすればきっと自分は抑えきれないだろう、と一弥は思った。
 そっと指だけを伸ばし、流水の指と自分の指を祈りの形に組み合わせた。神など信じていないくせに、誰かに何かを願うように。
 流水の左手と自分の右手が繋がっている、それだけで満たされるのに。
「そろそろ、帰ろう」
 指先だけ握りしめて外へ出ると、花嫁達を祝福したバラがまばらな道を作っていた。
 日が落ち、辺りの景色はバラと同じ赤に染めあげられている。けれど東の空には鮮やかな青がしがみついている。
 流水が落ちていたバラを一つ摘み上げた。
「一弥さんの時も、今日のように晴れるといいですね」
 流水は笑う。どうしてそんなに美しく笑えるのか、一弥には分らない。
 一弥も笑う。この手が離れてしまっても、この瞬間を絶対に忘れない、と。
 空の端には宝石のような青が残っている。
 古い教会は最後の太陽の光で耀いている。
 世界で一番愛しい人は祝福された花を手にしている。
 一弥は今日ほど幸せな日は無いのだと知った。
 そして流水が、今日ほど寂しくて、幸せな日はないと涙したのを知らなかった。永遠に。

 
まだ意味通らないな…

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