リンクして下さった方は、なんと私が書いた詩をお気に召したそう。
ほお! 詩ですか!

いえ、けして不満なわけではなく。
詩と言うのは自分、すごく嫌いだったのです。小学生の頃から。
それはもう、国語で詩の授業の時はわざと他のページを開くくらい。
いや、普段から授業そっちのけで教科書読み込んでたな(爆)
とにかく、目に入るのも嫌でした。

でも嫌いになったのには理由があって、ナントカ言う詩人が、妹の死に様を詩に残してたんですよ。
それを見た時の怒りと言えばね。一人で大興奮ですよ。

家族が死のうって時に詩作かよ?! 余裕じゃねえか! 身内の生き死にさえメシの種にするたあ、見上げたヤローだな?

とか思いまして。↑アイロニーです
そういうのが続きまして。もうそれからは詩を毛嫌いですよ。一度嫌いになると、徹底的に嫌いになります。

なんと言うか、誰も「お前の感情を見せろ」とか頼んでないのに、わざわざ吐露してみせる根性がおぞましくて。
家族が死ぬという本当の哀しい事に立ち会いながら、その情動を冷静に「作品」に仕立て上げてる詩人と言う物が厭らしくて。

だって、思いついた感情をそのまま文章になんてできないでしょう?
まさか、普段から韻を踏んで脳内で思考してるわけじゃあるまいし。
となると、感じた事を「作品」にする為加工している、研究者の如き眼差しを感じたわけです。
人前で泣いて見せながら、一番美しく見える角度を追求している女のような浅ましさを。

でもま、今は感情の発露は人それぞれで、哀しい時に踊りだしたり、嬉しい時に笑えなかったりする人間もいるんだろうなあという考えです。
↑それぞれすぎ?

小学生の頃は今より更に思い込みが強かったけど、その詩人的には身内の死を人前に晒そうと言う意図があったわけでなく、そうしなければならない理由があったのだと思えるようになりましたですよ。

私が詩を作るのは完全に音の世界なわけですが。そこに私自身の情動はありません。
少なくとも、私が感じた事をそのまま書き写そうという意思はないです。

悪く言えば言葉遊びですかね。普段から私の文章は言葉に囚われすぎな感じがするんですけど。

そう言えば小学生の頃、胸像とか肖像画には価値を見出さなかったんだよね。現実と同じなら造る価値がないと思ってた。
何かプラスする物が欲しかったのかな?
自己顕示欲を露出するものとしての作品ではなくて、常に客観的にどんな価値があるかを意識していたような気はする。

そういやこないだどっかの板で、「なぜ貴方は書くのですか」という質問があったのですよ。
ほとんどの人が、趣味と答えてました。でも、その応えは私的にはひっかかりました。
「書くのが趣味」なら、別に人に見せる必要はないでしょう。
例えばテニスが趣味の人が、わざわざ人に見せたりしないのと同じように。
「書きたいから書く」なら、ひっそりと自分だけで書いてればいい事です。自分の欲求に素直に、自分のしたいように。
で、「書いた物を見せるのが趣味」と言い換えられはしないか?
と思うわけです。

「書きたいから書く」それもあるでしょう。
でも、「見せたいから書く」これもあるんじゃないでしょうか? だから、サイトにアップしてるんじゃないでしょうか?
自己顕示欲です。
見せたい、読ませたい、感想が欲しい、褒めてもらいたい、認められたい、誰かに自分の存在を知らせたい。
そんな、誰にでもある欲求です。

って細かい言葉の綾にこだわりすぎですか。
でも、言葉を正確に使おうとするとこうなるんですけどー
適当でいいやーとか思えばいいか?

私は自己満足に陥りたくなくて書いてる感じかなあ?
自分の感性に従って書いてるんだから結局自己満足なんだろうけど、他人が見ても不愉快じゃないくらいに、っていうか愉快なくらいに、少しでも磨いていきたいなあ。

昔は感想なんていらなかったもんね。なぜなら、他人の意見なんて価値を見出せなかったから(爆)
自分のためだけに書いていたから。
楽だったわ〜あの頃。
でも、いつも同じような話ばかり書いてた。
今は進みたいと思えるだけマシなのかなあ〜そう思いたいよなあ〜

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