貧しい人間には、貧しい人間関係しか築けない。
だとしたら私は相当貧しく、ヒドい奴なんだろう。

所詮、その程度の気遣いしか要しない人間なのだろう、私は。
厳密に言えば直接言われたわけではない。
ただ私が勝手に考え、勝手に話し、向こうも勝手に応じた、ただ単にそれだけの事だ。
それが私の好意から発した物であっても、相手が一瞬たりと望んだ事であっても、それに対する礼遇を期待するのは愚かな事だ。

だが学習した事がある。
二度とネット上でプライベートは語るまい。
以前からその方針でいたが、今回の事でより強固にそう思った。

とやかく言われるのがイヤだったから、それについては何も言わないでいたのだ。
推し量る事もされないのは、私がその程度の人間だったにすぎない。

昔私は、人を言い負かしては有頂天になっていた。
反論できないと言う事は、自分が正しいと言う事だ。
自分を認められた気がしたのだろうか。
だが、多分違った。
皆、反論が思いつかなかったわけじゃないだろう。
できる技量がなかったわかでもない。

ただ、うっとおしかったのだ。
何を言っても当時の私は自論を翻さないだろうし、反省する事も謝罪する事もない。
ならば、論に費やす時間が無駄になるだけである。
だから、要するに、切り捨てられたのだ。

「こいつとはこれ以上話す価値が無い」と。
何を言ってもムダだから、相手にせずに放っておこうと。

今より更に未熟な私は、それを「逃げ」と取った。
確かに、逃げもあったろう。
だが、自分で思う以上に、「ウザイ」と思われて遠ざけられた事があったと思う。
今の私なら分かる。

論議にはエネルギーがいる。
それに費やす時間もいる。
それだけの価値を置ける人間か否か。

見極めれば人は、本当に自分にとって価値がないものだと判断がつけば人は、アッサリ切り捨てられる物だ。
「逃げた」と言われる屈辱を甘受してでも。
なぜなら、もっと他の、有益な事に時間もエネルギーも使う方が、自分にとって遥かに大切な事だからだ。

どうでもいい人間の為に、どうでも変わらぬ人間の為に、わざわざ時間やエネルギーを割く物好きはいない。

言いたい事を言ってその場はスッキリするだろう。
だが、その後に発生する諸々を考えると面倒で仕様が無い。
所詮その程度の気持ち、と言う事でもある。

私一人が心の中で留め置けば良い事である。
私と言う人間がどう考えられているかを。

私は調子に乗っていた。
これからは二度とプライベートは話さない。
特に身内の事は。

私はこの関係を改善する為に努力する気がない。
そんな余裕も無いし、その為に時間とエネルギーを割く事も面倒だ。
所詮、その程度の事。

私がいかに学んで、いかに「お客さん」でなく「参加者」であるようにどれほど腐心したかなど、そんな事は彼らに関係ないのだ。
元より見返りを求めてやった事ではない。
これは私の単なる「好意」に過ぎない。
受け止める側が「当たり前」だと感じればそれは、「奉仕」と変わらないのではないか。
私は供に楽しみたかった。
私は供に作り上げたかった。
だが、私は常に「提供者」であり、彼らは常に「受け手」だった。
金銭取引があるわけでもないので「契約」という義務に縛られてもいないし、私自身は客扱いをしているつもりもなかった。
だが、結局はそういう事なのだ。

「努力しさえすれば、いつかきっと報われる」と言う考え自体が間違いなのだ。
「努力すればできない事はない」なんて言うのは嘘だ。
それは努力してなお叶わない者を貶める言葉でしかない。
あるいは、その努力は勘違いだ、とでも?
そうかもしれない。

「努力が足りないからできない」のだ。
ではなく、「努力していないからできない」のだ、とも言う事ができる。
「本気を出して努力すれば、いつでもできる」のだと。

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